行政も改革の対象となり、スウェーデンやプロイセンなどをモデルにして整備された。中央政府では、1711年元老院が設置されてツァーリ不在時の政務を代行した。1718年には行政区分が改革され、50以上存在し役割の重複した官庁制度を廃止し、役割ごとに分けた9つの参議会制度に再編された。地方行政では1708年国内を8つの県に分けたが、1719年にさらに45の州に分けて統治した。経済政策にも積極的で、官営工場の設立や工業への保護育成政策も採られた。長く大規模な戦争や、新首都建設を支える莫大な費用を捻出するため、様々な物品に税をかけた。また効率の良い人頭税制度が、1718年から実施された。重い税負担や抜本的な組織改革は、一般民衆の反発をもって迎えられ、ドン・コサックや農民一揆などの反乱が相次いだ。また政府を担う官僚の教育不足や意識の低さによって、徴税や中央と末端との意思伝達がうまく進まないのが常だった。 貴族や教会に対しては、改革を通じてツァーリと国家への従属を要求していった。貴族に対しては、まず爵位制度が導入されて、古い大貴族が持つ称号は廃止された。1714年に慣習であった領地の分割相続制を禁じて長子相続制に移行させたため、日経225 以外の貴族子弟は生活のために軍か政府で勤務するのを事実上強要された。国家勤務者は官等表で3種14等級にランクづけられた。国家奉仕のためには教育が必要不可欠であり、彼ら貴族の子弟のために、実業学校など様々な教育の場がもうけられた。[6]。またロシア正教会に対しても、国家による管理を徹底させた。イングランド国教会の制度に倣ったと考えられる。1700年以降、モスクワ総主教座は空位とされ、教会が持つ免税特権も奪われた。1720年には総主教座の廃止に踏み切り、教会を宗務院という国家の世俗機関の管轄下に置いた(ピョートル大帝による教会統制策参照)。 1703年イングリア地方を占領すると、ネヴァ川の河口にあるデルタ地帯に港湾都市の建設を開始した。ピョートルはこの都市に、「聖ペトロの街」を意味するサンクトペテルブルクというドイツ語名を付けた。ピョートルはペトロのロシア語形であり、この都市名は事実上、自分の名を冠したものとなった。この都市は白海のアルハンゲリスクに代わる新しい貿易港として、バルト海交易ルートの中継地点の役割を期待されていた。しかしこの一帯は湿地で、地盤が弱く洪水も頻発したため、年間数万人の労働力と大量の石を徴集して大規模な基礎工事に当たらせた。1712年に工事が完了すると、ピョートルはこの町に遷都し、大貴族や裕福な商人・職人をFX させた。1725年には人口4万人に達し、都としての威容をととのえていった。 ピョートルと長男アレクセイピョートルは1689年下級貴族の娘エウドキヤ・ロプーヒナと結婚し、3人の息子をもうけたが、成長したのは長男アレクセイだけだった[7]。ピョートルはこの敬虔なだけで何の取り柄もない妻を疎んじ、1698年には彼女を修道院に追放した。また結婚直後から、外国人居留地出身のドイツ人女性アンナ・モンスを愛人としていた。1703年にはメーンシコフの家の召使マルファ(後のエカチェリーナ1世)をも愛人とし、1707年にはこのマルファと秘密結婚、1712年に正式に結婚して皇妃とした。マルファは戦争捕虜で、もとはリヴォニア地方の農民の娘だった。改宗しエカチェリーナと名乗ったマルファとの間には12人の子供が出来たが、成人したのはアンナ・ペトロヴナとエリザヴェータ(後の女帝)の娘2人だけである。娘アンナ・ペトロヴナと姪のエカチェリーナ、アンナ・イヴァノヴナ(後の女帝)の3人は、いずれもバルト海沿岸のドイツ人領邦君主に嫁し、ピョートルによるバルト海支配の重要な布石となった。 信仰心が強く西欧化に反発する息子アレクセイとは不仲で、彼の周囲には反体制派が集まって、無視できない勢力となった。1716年、アレクセイはウィーンに亡命したが、翌1717年ナポリでロシア政府に拘束され連れ戻された。ピョートルは息子が政府転覆の意思を持っていたと信じ込み、彼の支持者を粛清したうえでアレクセイの継承権を奪った。アレクセイは1718年に死刑を宣告され、その直後に獄死している。ピョートルの後継者の地位は、エカチェリーナが産んだ息子ピョートル・ペトロヴィチに移ったが、この幼い息子は1719年に死亡した。男子が一人も居なくなった皇帝は1722年、君主が後継者を生前に指名する形式の帝位継承法を定めている。晩年のピョートルは膀胱炎を患っていたが、真冬の海に入って溺れた漁師を助けたために病気が悪化し、1725年1月28日に死去した。後継者を選定しないままだったため、皇后がエカチェリーナ1世として後を継いだ。ピョートルは出世させた側近や新設の軍隊には人気があったが、その統治方針は大多数の貴族、聖職者、民衆には理解できないものであり、教会への圧力や外国人の登用、ラディカルな西欧化に反感が高まった。ピョートルを「反キリスト」や「投資信託 がすり替わった偽物」と考えなければ、人々は皇帝の行動に納得できなかったのである。 フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は1688年8月15日、後にプロイセン王フリードリヒ1世となるブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世とその妻ゾフィー・シャルロッテ(ハノーファー選帝侯エルンスト・アウグストの娘)との間に生まれた。フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は1689年から1692年までハノーファーの祖母ゾフィー・フォン・ハノーファーに育てられ、その後ドーハ城伯アレグザンダーやユグノーのジャン・フィリップ・ロビュールらによって教育を受けた。1698年の10歳の誕生日には父からヴスターハウゼンの荘園を贈られ、1701年のフリードリヒ1世の即位にともなってオラーニエン公となった。 1706年11月28日、王太子フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は母方の伯父ハノーファー選帝侯ゲオルク1世(後のイギリス国王ジョージ1世)の娘で従姉に当たるブラウンシュヴァイク=リューネブルク=ハノーファー公女ゾフィー・ドロテーアと外国為替証拠金取引 した。フリードリヒ・ヴィルヘルム1世はゾフィー・ドロテーアとの間には、4人は早世したものの計14人の子供をもうけ、ロココ時代の君主のならいであるような多情を抱かなかった。 1713年2月25日、フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は父王の死によってプロイセン王位を継承したが、フリードリヒ1世の浪費によってこのときのプロイセンは破産寸前だった。こうして新王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は軍事・財政の全般的な改革に乗り出すことになる。 フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は精力的に国政の合理化・単純化に取り組み、同時に軍事力の強化に着手した。経済力のある市民の受け入れを促進し、ペストによって人口希薄になった東プロイセンに、フォンテーヌブローの勅令によりカトリック勢力に迫害されたフランスのユグノーたちを誘致した。1732年、特にプロテスタントへの迫害の厳しかったザルツブルク大司教領からは2万以上の難民が移住し、荒廃した東プロイセンには再び活気が満ちた。また1713年の官営紡績工場設立、1717年のハーフェル川流域の沼沢地干拓、1727年のベルリン施療院設立などが王の業績として挙げられる。 フリードリヒ・ヴィルヘルム1世が行った軍制改革によってカントン制度が設けられ、地域別に編成された連隊への人員供給が安定した。また王は長身の兵を偏愛し、そのような兵のみを選抜したポツダム巨人軍と呼ばれる近衛連隊を組織したことは有名である。各地に出向いた徴兵官は誘拐や資産運用 によって長身の壮男を募り、その中にはスコットランド人などもいたが、王はベルリンに専用の邸宅まで用意して兵士に与えたりした。この連隊の維持には多額の費用がかかったが、兵力としてはなんら長所はなく、この王の唯一の娯楽ともいうべき連隊は、息子のフリードリヒ2世の即位後廃止、残留を望む者だけを1個大隊に集めて、他は解散させた。王は軍隊の育成に心血を注いだが、この軍隊はほとんど実戦を戦うことはなく、フリードリヒ・ヴィルヘルム1世が参加した戦争は大北方戦争のみであった。スウェーデン軍を相手に戦ったこの戦争でプロイセンは勝利を収め、1720年のストックホルム条約で、前ポンメルン、シュテッティン、ウーゼドム島などの領地を獲得した。