第二の氷上侵攻は、大北方戦争におけるデンマークとの戦役で行われた。スウェーデンは緒戦においてロシア帝国との一騎打ちに敗れ、帝国の称号を失っていた。しかしロシアと同盟を結び背後からスウェーデンを脅かすデンマークを屈服させることができれば、スウェーデンは改めて態勢を立て直してロシアと対峙できる可能性があった。 カール10世の孫にあたる時の王カール12世は、当初ノルウェー方面への侵攻を考えて、スウェーデン本土のスコーネに陣取っていたが、1715年から1716年にかけてデンマークを寒波が襲った。これによりエーレスンド海峡が氷結して氷上侵攻が可能となり,カール12世はその準備を進めた。デンマーク側も58年ぶりの悪夢の再来を覚悟して島全体に防衛体制を敷いた。 ところが、スウェーデンが侵攻命令を下す直前になってエーレスンド海峡を嵐が吹き荒れ、氷は破壊され再びの株 は期待できなくなった。この結果、作戦は中止された。カール12世は、以後デンマーク本土に対する牽制を諦め、その対象をノルウェー本土に定めて行く事となった。 ピョートル1世(ロシア語:Пётр I Алексеевич;ラテン文字表記の例:Pyotr I Alekseevich, 1671年6月9日 - 1725年2月8日)は、ロマノフ朝のモスクワ大公、ツァーリ(在位:1682年 - 1725年)、初代ロシア皇帝(インペラトール、在位:1721年 - 1725年)。出生名はピョートル・アレクセーエヴィチ(Пётр Алексеевич)。その歴史的存在感と2mを超す巨躯から、ピョートル大帝(ピョートル・ヴェリーキイ;Пётр Вели?кий)と称される。ツァーリ・アレクセイ・ミハイロヴィチの六男、母はナタリヤ・ナルイシキナ。 ロシアをヨーロッパ列強の一員とし、スウェーデンからバルト海海域世界の覇権を奪取してバルト海交易ルートを確保。また黒海海域をロシアの影響下におくことを目標とした。これらを達成するために治世の大半を大北方戦争に費やし、戦争遂行を容易にするため行政改革、海軍を創設を断行。さらに貴族に国家奉仕の義務を負わせ、正教会を国家の管理下におき、帝国における全勢力を皇帝のもとに一元化した。また歴代ツァーリが進めてきた西欧化改革を強力に推進し、外国人を多く徴用して、国家体制の効率化に努めた。1721年には大北方戦争の勝利を記念して、元老院にインぺラトールの称号を贈らせ、国家名称をモスクワ大公国からロシア帝国に昇格させた。ロシアを東方の辺境国家から脱皮させたその功績は大きい。 フョードル3世の崩御により、株 派の擁する病弱な異母兄イヴァンを差しおき、1682年4月ツァーリを継いだ。しかし即位後まもなく銃兵隊の反乱が起き、母方ナルイシキン家の政権が崩壊する。ミロスラフスキー派はこれに乗じてイヴァン5世をツァーリとし、ピョートルはその共同統治者に格下げされた。イヴァンの同母姉ソフィヤが、テレム宮から出て幼い2人の弟の摂政として実権を握った。ピョートルは母とともにモスクワ郊外の離宮に移り、儀式のさいのみクレムリンを訪れた。ピョートルが成長すると、ナルイシキン家などの支持派は彼の親政を望み、ソフィヤの摂政政府と対立した。1689年9月、ソフィヤは官僚、軍人、教会の支持を失ってピョートルに政府を明け渡した。 ピョートルは当初、国政を母ナタリヤらナルイシキン一族に委ね、趣味の軍事教練に熱中した。また首都近郊の外国人居留地に頻繁に出入りし、多くの外国人と親交を結んだ。スイス出身のレフォルト、下士官出身のメーンシコフを側近に取り立てたのはこの時期とされる。1694年に母が死去すると、親政を開始した。また名ばかりの共同統治者イヴァン5世の死去(1696年)で、単独統治に入った。 1700年頃の肖像画1697年3月から翌1698年8月まで、ipo は約250名の使節団を結成しヨーロッパに派遣、自らも偽名を使い使節団の一員となった。この使節は軍事・科学の専門技術といったヨーロッパ文明の吸収を目的としていたが、対オスマン軍事同盟のへの参加を各国に打診する外交使節をも兼ねていた。また使節の一員に身をやつしたのは、煩瑣な儀礼に縛られず自由に行動するためと、公的にはモスクワを離れていないと内外に示すためだった。主にオランダのアムステルダム(4ヶ月半)とイギリスのロンドン(3ヶ月)に長期滞在し、プロイセンのケーニヒスベルク、ドレスデン、ウィーンにも立ち寄った。 アムステルダムでは造船技術の習得に専心し、東インド会社所有の造船所で自ら船大工として働いた。病院・博物館・植物園を視察、歯科医療や人体解剖を見学した[1]。ロンドンでも王立海軍造船所に通い、天文台・王立協会・大学・武器庫などを訪れた。また貴族院の本会議やイギリス海軍の艦隊演習も見学した。ピョートルは沢山の物産品や武器を買い集め、900人を越える軍事や技術の専門家を連れ帰って、その知識をロシア人に教え込ませた。しかし資産運用 の目的だった軍事同盟の呼びかけは、当時の西欧の関心がオスマン帝国よりも、近々予想されるスペイン継承戦争に集中していたため失敗した。 ポルタヴァの戦い1696年対トルコ戦争でアゾフを占領したが、1699年にはポーランド、デンマークと反スウェーデン同盟を結び、バルト海方面に転じた。1700年スウェーデンと交戦状態に入るが、ナルヴァの戦いでカール12世の率いる少数精鋭の敵軍に惨敗した。しかし軍備増強に努め、ポーランドとの戦争に忙殺されるスウェーデン軍の隙をつき、1706年頃にはリヴォニア地方にまで進軍した。1708年カール12世がロシア領に侵攻し、ウクライナ・コサックの首長マゼーパと連合したが、ピョートルはこれをポルタヴァの戦いで大敗させた。カール12世はトルコに逃げたため故国に戻れず、ピョートルはこの機に乗じて親露派のアウグスト2世をポーランド王位に復帰させ、カレリアとリヴォニアを征服した。一方イスタンブルにいるカール12世はアフメト3世を説き伏せ、1711年トルコをロシアとの交戦に踏み切らせた。ピョートル率いるロシア軍はプルト川河畔でオスマン軍に包囲され敗北、カール12世の帰還、アゾフなど1696年トルコから奪った領土の返還を承認させられた。 しかし翌1712年からロシアは攻勢に転じ、個人向け国債 の海戦で歴史的勝利をおさめ、ロシア海軍の成長を見せつけると同時にバルト海の覇権を獲得した。しかしこの事態は近隣諸国を警戒させ、ピョートルは圧力に屈してポーランドから撤退した。1718年にはスウェーデンと休戦交渉に入ったが、カール12世の急死で主戦派の妹ウルリカが王位を継ぐと、交渉は打ち切られた[2]。1721年イギリスの調停でニスタット条約が結ばれ、スウェーデンとロシアがバルト海の覇権を争った大北方戦争は、ロシアの勝利に終わった。ロシアはフィンランドを除き占領したバルト海沿岸地域のほとんどを獲得、トルコともパッサロヴィッツ条約を結んで決着をつけた。また1722年にはサファヴィー朝ペルシアを攻め、中央アジアに影響力を及ぼそうとした。1725年には20余りのヨーロッパの主要国に外交官を常駐させるに至った。 自軍の兵士による略奪を制止するピョートルピョートルは幼い頃から本格的な軍事教練に熱中し、後に近衛軍の核となる連隊を組織させていた。親政初期から海軍を創設し、1696年に艦隊を使ってアゾフを陥落させ、大使節団でも海事を中心に学んだ。1700年ナルヴァでの敗北は彼にロシア陸海軍の装備・訓練の不足を痛感させ、本格的な軍事改革に着手させた。まず海軍省と砲兵学校を創設し、小銃・大砲・軍艦の増産を急ピッチで進めた。1705年には終身型の徴兵制度も導入、新設軍隊の兵士は西欧式の訓練を施された。 1698年に帰国すると、西欧化改革の始まりを示すべく大貴族の髭を切らせ、髭に課税して切るよう一般民衆にも強制した[3]。廷臣と役人にも西欧式正装を義務づけたほか、1700年にユリウス暦を導入した[4]。さらに1702年には宮廷改革に着手し、女性皇族が従っていた厳しい行動制限を撤廃して宮廷行事への出席を命じた[5]。