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ストックホルム条約( -じょうやく)は、大北方戦争において、1720年にスウェーデンと、デンマーク、プロイセン王国、ザクセン=ポーランド王国、ハノーファー選帝侯との間で結ばれた条約。大北方戦争における講和条約の一つ。 スウェーデンの首都ストックホルムで行われた。これによってスウェーデンと交戦国との戦争は終結した。 プロイセンは、前ポンメルン、シュテッティン、ウーゼドム島を獲得。ただし、シュトラルズントやリューゲン島は返還された。 ハノーファー選帝侯は、ブレーメンとフェルデン(ブレミッシュ=フェルデン)を獲得。しかしこれはスウェーデン議会による、イギリス王を兼ねる選帝侯に接近し、友好的姿勢を示すための割譲であったと言われている。 ポーランドは、特に得たものはないが、スウェーデンに占領された失地を回復した。また、ザクセン選帝侯のポーランド国王兼務が確定した。 デンマークは、この戦争で得たものは何もなかった。失地回復すら叶わなかった。ただシュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国へのスウェーデンの影響力が無くなった事は、重要な結果であった。 この条約によって、戦争状態を残すのはロシア帝国だけとなった。しかしこの条約にしても、スウェーデンの敗北は明らかであった。 ナルヴァの戦い(ナルヴァのたたかい、スウェーデン語Slaget vid Narva、ロシア語Битва при Нарве)は、1700年から1721年にかけてロシア帝国とスウェーデンを中心に戦われた大北方戦争における一戦闘。 1700年11月17日、スウェーデンのナルヴァ要塞を陥落させるため、ピョートル1世が3万から4万の兵を率いて要塞を包囲していた。これに対し、当時18歳であったスウェーデンのカール12世は、約半分ほどの兵力でロシア軍に壊滅的な打撃を与えた。 この後、スウェーデンはロシアと組んでいたポーランドにも軍事遠征を行い、一旦はポーランドの反スウェーデンの動きを沈静化させた。一方、敗れたピョートル1世はさらなる軍の近代化を推進するとともに、1705年より徴兵制の導入も行った。ナルヴァの先物取引 は、ロシア軍を一度は退けたものの、カール12世の不在時の1704年に陥落した。 ニスタット条約(スウェーデン語: Freden i Nystad、ロシア語: Ништадтский мирный договор)は、大北方戦争の後、1721年9月10日(旧暦で8月30日)にロシアとスウェーデンのあいだで結ばれた講和条約。現在のフィンランドのウウシカウプンキ(Uusikaupunki、スウェーデン語でニュスタード)において結ばれた。 大北方戦争中にロシアが占領していたフィンランド、ヴィスマル、フォアポンメルン西部はスウェーデンに返還されたが、カレリアの大部分、エストニア、リヴォニア(ラトヴィア)、イングリア(インゲルマンラント、イジョール)、またバルト海のサーレマー島とヒーウマー島(ともに現エストニア領)はスウェーデンからロシアに割譲された。これにより、スウェーデンが築き上げた「バルト帝国」は崩壊し、ロシアがスウェーデンに代わってバルト海の覇権を握ることになった。 この条約によってバルト海の覇権を失ったスウェーデンでは、大北方戦争中にカール12世が戦死していたこととあわせ、国王の権威を低下させた。そのため王権の制限が進められ、絶対王政下における大国主義から、いわゆる「自由の時代(スウェーデン語: Frihetstiden)」へと移行することになった。一方で、新たにバルト海の覇権を握ったロシアは、ヨーロッパ政治における存在感を強めた。ヨーロッパの主要国はロシアに外交官を常駐させるようになり、国際政治において対ロシア関係を無視することができなくなった。国内でもピョートル1世がその威信を強め、ロシアの「元老院」から「皇帝」「大帝」などの称号を受けることになった。 ハンゲの海戦(ロシア語: Битва при Гангут、スウェーデン語: Slaget vid Hango)は、1712年7月27日にスウェーデン海軍とロシア海軍との間で行われた海上決戦。この海戦はロシア海軍の最初の勝利で終わることとなり、ロシアがバルト海で先物取引 を誇るようになる原因となった。 ロシア海軍は二つの島の間に防衛線を張り、スウェーデンの艦隊を攻撃した。スウェーデン海軍のガレー船は一隻が転覆し、士官も多くが負傷した。司令官以下艦隊は降伏し、海戦は幕を閉じた。 この海戦の敗北により、スウェーデンはバルト海での活動を大きく制限され、フィンランドの支配が困難になった。そのため、大北方戦争終結の一因となったのである。この海戦は、ポルタヴァの戦いと並ぶ、大北方戦争における一大決戦でった。 ハンゲはロシアではガングートと呼ばれ、長らくFX 初心者 ではこの海戦の勝利を祝い、艦にガングートの名をつける伝統があった。 反スウェーデン同盟は、1699年に北東欧諸国で結成された対スウェーデン同盟。ロシア(モスクワ大公)のピョートル1世、ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世(兼ポーランド王アウグスト2世)、デンマーク王フレゼリク4世によって1699年9月にザクセン公国の首都ドレスデンで結ばれた。日本では「北方同盟」と呼称される場合もある。 スウェーデンは当時、デンマークとシュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国を巡る対立、ポーランド王国とはポーランドの失地を巡る対立があった。ロシアは元々、黒海進出に際して対オスマン同盟を模索していたが、フランス、イングランドの反対により頓挫し、バルト海に目を向けていた。ロシアの目論みは不凍港であった。スウェーデンをバルト海の支配者から引きずり下ろすためにもデンマークやポーランドと言った国々にはロシアの参戦が必要不可欠であった。また、日経225 を得る事はロシアにとって悲願であり、利害は一致する事となる。これら三国間の同盟工作を行ったのは、スウェーデン領リヴォニアから亡命したバルト・ドイツ人貴族パトクルである。 1698年から各国は秘密裏に接触を行い、1699年にドレスデンで秘密同盟が結ばれた。この同盟により、対スウェーデン攻撃は1700年1月あるいは2月に決定された。そして、デンマークは、スウェーデンと同盟を結んでいるシュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国(ホルシュタイン=ゴットルプ公領)、ポーランドはスウェーデン領リヴォニア、ロシアはスウェーデン領インゲルマンランドをそれぞれ攻撃する事となった。 翌1700年初頭、反スウェーデン同盟諸国は一斉に攻撃を仕掛け、大北方戦争が開始された。スウェーデンは、一旦はデンマーク、ポーランドを屈服させたものの、大国として著しい台頭をするロシア帝国やプロイセン王国の参戦によって劣勢に追い込まれ、1720年のストックホルム条約によるデンマーク、ポーランドなどとの講和、1721年のロシア帝国とのニスタット条約締結によって戦争は終結。スウェーデンはバルト帝国の地位から転落し、ロシア帝国が代わってバルト海の覇者となった。 氷上侵攻(ひょうじょうしんこう)は、北方戦争におけるスウェーデン、デンマーク間の戦闘(カール・グスタフ戦争)でのスウェーデン王カール10世が指揮した奇襲侵攻作戦をいう。この成功によりスウェーデンはデンマークを屈服させ、1658年のロスキレ条約へと導いた。現代においてもスウェーデン人はこの作戦を誇りとしている。なお、この戦術は、日本ではしばしば源義経の鵯越や、織田信長の桶狭間の戦いと比較される(以上、第一の氷上侵攻)。 これとは別に、デンマークへの氷上侵攻は、大北方戦争でも試みられており、こちらは「嵐に消えた氷上侵攻」とも呼ばれている(第二の氷上侵攻)。 第一の氷上侵攻は、北方戦争におけるデンマーク戦役で行われた。1657年、ポーランド戦役を終えたカール10世に対してデンマークが宣戦布告を行った。ポーランドで転戦していたカール10世は、すぐさまドイツへと向かい瞬く間にユトランド半島を制圧した。 しかしここで侵攻は一時中断を余儀なくされた。デンマークを屈服させるには首都コペンハーゲンを攻撃するしかなかったが、コペンハーゲンはシェラン島に位置しており、陸伝いの進軍が困難であったからである。しかしたまたま1657年から1658年にかけて猛烈な寒波が同地を襲い、ストーラベルトとリラベルトの二つの海峡が氷結した。カール10世は好機を見逃さず、氷上侵攻を命じて大成功を収め、デンマークは戦意を喪失した。この結果スウェーデンは、北方戦争の事実上の覇者となった。